ももしゃん@丸の内OLを辞めてインドネシアで生活中

たくさんの寄り道を繰り返し、何とか生きてる日々を綴ります。【自由を求めて生きる元丸の内OL】です。/新卒で入った会社では思い描いていたきらきら丸の内OL生活はできないと悟り退社⇒熊本で半年間のニート生活⇒バリ島の高校にて日本語アシスタントとして活動中

適応障害になった話【診断後の生活】

こんにちは。
ももしゃんです。
 
この記事では適応障害と診断されたあと、
会社を辞めようと思ったまでのことを書きます。 
 
大事な人が適応障害になってしまった方は
これを読んで
少しでも気持ちをわかってくれたり、
寄り添ってみようという気持ちになってもらえればうれしいです。
 
そして今まさに適応障害と闘ってる方。
わたしが伝えたいことはこの2つ。
 
·人と会おう。
·堂々と休もう。
 
 
今は怖いかもしれないけど、きっといつかわたしみたいに
こんなことブログに書けちゃうようになります。
というわけで、ぜひわたしの体験記読んでください。
 
 
 
お医者さんから適応障害と診断される
 
適応障害と診断されたのは25歳のとき。
 
その頃毎日会社を辞めたいと思っていました。
そしてある日を境に涙が止まらなくなって、
会社に行くことも出来なくなってしまいました。
 
そして病院へいきました。
 
そして診断結果は
 
”適応障害”
 

「病院に行ったら薬をもらって会社に行けるようになる!」
と思っていたのに、お医者さんから
休むことを勧められたとき、はじめは戸惑いましたし、
え、まさかわたしが適応障害?と思いました。

 
そもそも適応障害ってなに?
ていうところが最初に思ったことでした。
 
わたしは自分でもメンタルが強い方だと思っていたし、
周りからもそう言われていました。
 
小さい頃からずっと、
「あなたは強いね。」
って言われてきたし、わたしもその自覚がありました。
 
そんなわたしが、お医者さんから休むことを勧められてる現状に
あまり納得がいかなかったのはたしかです。
そのときのわたしは、休むことは悪いことだし、
病気になる人は弱い人だと思ってました。
 
自分を客観的に見ることが出来ていなかったです。
 
とりあえず休みましょうといわれ、
1ヶ月間会社を休むことにしました。
 
会社の上司からは、 
「会って話しがしたい。」「明日寮にいきます。話しましょう」
とか、たくさんメッセージがきたけど、
それが恐怖でしかなくて、
携帯をみるのがとても怖かったです。
 
今会いたい人ではないし、会ったところで何も解決しない。
 
もし部下が適応障害になってしまった、
という方がこのブログを読んでいらっしゃったら、
こんなことだけはしないでください。
待ってあげてください。
 
本人も自分を受け入れるのに必死な期間なのです。
だから話をききたいとか、そういうの必要ないです。
ただただ、待ってあげてください。
 
 
 
人の目が気になって外に出るのが怖くなる
 
会社を休むことになりましたが、
そのときわたしは会社の寮に住んでいました。
 
男女合わせて、若手社員が100人以上いたと思います。
 
普通のアパートのような感じなので、
部屋は1人1つあり、そこは完璧にプライバシーは守られていました。
 
ですが、同じ会社勤務ということもあり、
朝は出社時間、夜は帰宅時間など、
外の音が騒がしくなります。
 
その音を部屋の中で聞くたびに、
「今わたしはとても悪いことをしている。」
という気持ちになっていました。
 
みんなは仕事をしているのに自分だけ部屋で
一日中過ごしてなにもしていない。
 
毎日毎日その繰り返し。
罪悪感で心が押し潰されそうでした。
 
何をするでもなく朝から晩まで部屋の中。
食料を買いに出掛けることにも罪悪感を感じ、
マスクをして、寮に誰もいない時間に部屋を出ていました。
 
日々、誰かに会わないかな?見られてないかな?と隠れるように生活しました。
 
わたし、全然強くなんかなかったみたいです。
 
 
 
産業医さんとの出会い
 
そして1ヶ月が過ぎようとする頃、
会社の人事から、産業医さんと話すことを勧められました。
産業医とは会社に定期的に来てくださるお医者さんのことです。
 
わたしは電車に乗ることが怖かったし、
もちろん会社に行くことも怖かったので断ったのですが、
色々他にも提出しなければいけない書類もあったので
勇気を出していくことにしました。
 
やっぱり電車に乗ると動悸がするし、涙は止まらなくなりました。
 
会社の最寄りの駅までは同期の女の子が迎えに来てくれていました。
 
いつものように接してくれて、一緒に会社までいきました。
変に気を使うこともなく、いつも通りに接してくれたことが
何よりも嬉しかったし、落ち着きました。
 
「大丈夫?」「どうしたの?」
 
という言葉をかけられることが怖かったのですが、
最近マツエクつけたんだ~とか、
いつもと変わらない話題で緊張を和ませてくれました。
 
そして会社に着き、部屋に案内されて産業医さんとお話をしました。
 
今のわたしの気持ちなどを話すと、産業医さんは
 
堂々と休んでください。
休んでるからって外に出たらいけないわけではないし、
映画を観に行けるならいっていい。
旅行にいく体力もあるならいっていい。
おいしいご飯を食べに行きたいなら友達といっていい。
あなたは今堂々と会社を休んでいいのよ。
 
と言ってくれました。
「堂々と休む」
 
この言葉にわたしがどれだけ救われたことか。
後ろめたい気持ちしかなかったのが、
その言葉を聞いたときに心がすっと軽くなりました。
 
適応障害は治ります。ずっとこの状況が続くわけじゃない。
でもいつまで続くかわからない。だから焦らなくていい。
誰とも比較しなくていいし、責めなくていい。
だから今はたくさん休んで、やりたいことをしてね。」
 
と言ってくれました。
 
その日から、堂々と休むことを決めました。
 
そして、早く元気になろうと思うこともやめました。
もちろん、会社に行かなきゃということも考えるのをやめました。
(迷惑をかけてることへの申し訳なさはありました。 
だけど、今の自分が戻ってもなにも出来ないこともわかってました。)
 
誰も先のことなんてわからないんです。
そしてわたしの気持ちはわたしにしかわからない。
自分のペース、自分は自分。
 
そう思って過ごすことにして、
そこからまた1ヶ月お休みをもらうことにしました。
そこからは実家のある熊本へ戻り、
堂々と休むことにしました。
 
 
 
熊本で堂々と休み始める
 
わたしは母にだけ適応障害のことを伝え、
少し実家で暮らすことを話しました。
(父には母から話してたと思います。特に何も触れられませんでした。)
 
わたしが熊本に帰ってしたことは、
 
·寝る
·食べる
·友達とご飯にいく
·犬の散歩をする
·おばあちゃんを買い物と病院に連れていく
 
こんな感じです。
 
体力的にきついときもあるから、
そんなときは一日中家の中でゴロゴロしてました。
そんなときでも罪悪感を覚えるのではなく、
今日は休まないといけない日だったんだと思うようにしました。
 
働いている人が聞いたらすごくむかつく考えですよね。
わたしも適応障害になる前にこの考えを聞いたら、
発狂するくらいむかついていたとおもいます。
でも、今はわかります。
 
休まないといけない日はあるんです。
 
 
気分がいいときには積極的に外に出ました。
 
東京に就職したはずのあいつがなんで熊本にいるの? 
って思ってる友達もたくさんいたと思います。 
でも、そんなこと直接聞いてくる人はほんと少しで、
それが仲のいい友達だから、ありのままを伝えました。
 
自分が自分であることを隠すことで
さらにきつい思いをするなら、
さらけ出してそれを受け入れてもらうしかないと思いました。
自分勝手な考えだけど、それが生きやすいと思いました。
 
だから聞いてきた友達には伝えました。
 
なぜかわたしのまわりには、笑ってくれる友達が多くて、
真剣な顔で「大丈夫?」なんて言った人はいなかったかもしれません。
 
笑いながら、
「まじか!じゃあ熊本帰ってこれるね!」って言ってくれる友達がいました。
 
あー。わたしには居場所があるんだなって思いました。
そしてこんなに心強い友達もいる。
幸せだなー。って。
 
適応障害になったからこそ知れた友達の暖かさ。
 
わたしの病気を弱味として見るんじゃなくて
それをひとつのきっかけとして、
逆によろこんでくれる友達。
 
人って暖かいなって思いました。
 
 
そんなこんなで会社の面談もあったので、
約1ヶ月の熊本生活を終えて東京へ戻りました。
 
 
 
元気になっていなかった心
 
わたしは熊本に帰ってすっかり気持ちが楽になっていたので
東京でも大丈夫だろうなって思っていました。
 
突然涙が流れることもなくなったし。
 
でも、そんな考えは甘く、
東京で電車に乗るとまた涙が込み上げてきました。
 
熊本では元気になってたじゃん。って、心の中で何回も思いました。
 
なんて弱いんだろうって、自分を責めました。
 
東京に戻るなり、涙が止まらなくなる日は続きました。
 
そしてまた会社を1ヶ月休むことになりました。
 
 
 
人事からの一言で会社を辞める決断をする
 
また休みますっとなってから、人事部長と面談をする機会がありました。  
 
わたしの家の近くのカフェまできてくれて
そこで話をすることになりました。
 
最初に、わたしが休み始めた経緯などを確認されたのですが、
内容が結構違う部分があり、
え?なにそれ?とこっちが不思議に思うことがいくつかありました。
 
休職をしてすぐに人事の課長からヒアリングを受けていて、
そのときに話したことと、今回部長が確認していることが
違っていて、わたしそんなこと言ってません。
とか、いくつも訂正をしました。
 
その後に、
「もう会社には戻りたくない。辞めたい。」
と伝えました。
 
それを聞いて部長が放った言葉に、
わたしは耳を疑いました。
 
「あなたみたいに適応障害や、うつ病になって仕事をしている人はたくさんいます。
うちの会社にもいますよ。でも大丈夫。
仕事に行きながら病院にもいけるから。」
 
え?
 
大丈夫?
 
なにが大丈夫なの??
 
 
この人よく人事部長やってるなと思いました。
 
その言葉が恐ろしすぎて、今でも鮮明に覚えています。
 
仕事して病気になって病院にいって…
それで仕事をしろってことですよね?
 
意味がわからなかったです。
 
「病院にいく日は休むことができる。いい会社でしょ。」
とでも言いたかったのかな。
 
この瞬間に、
「あ、こんな人に話しても無駄。本気で辞めよう」
と決めました。
 
その日は辞めたいと告げましたが、
どうしてもまた考えてくれと言うことで、 
2週間後に答えを出すことになりました。
 
最近若手が辞めていくので、
離職率が高くなってて少しでも引き留めたかったんだとおもいます。
 
 
そして2週間後、再度退社の旨を伝え、
退社することができました。
 
それからわたしは熊本に帰り、5ヶ月間のニート生活を送ることになります。
 
 
 
最後に
 
適応障害になってよかったと今は思います。
当事者の気持ちが少しは理解できるし、
その経験談もこうやってブログに書ける。
 
友達の暖かさにも気づくことができました。
 
そしてなによりも、会社を辞めるきっかけになりました。
 
わたしは勝手に
「人間お休み期間」っていっていますが、
確実に人生において必要な時間でした。
 
そこ何ヵ月、何年お休みしたからって
死ぬわけではないです。
 
死ぬくらいなら人間お休みした方がいいんです。
 
もちろん、適応障害にならないほうがいいし、
うつ病にならない方がいいです。
 
でもなってしまったらしょうがないし、
それと向き合わなければならない。
 
わたしはこれを乗り越えたからこそ今インドネシアで生活してます。
 
今は毎日楽しいです。
 
先が見えなくてどん底にいて、
毎日見えない不安に怯えながら泣いてた自分に教えてあげたいです。
 
大丈夫。あなたは1年もしないうちに海外で楽しんでるよって。
 
メンタルの病気の場合、
本人もきついと思いますが、周りでサポートする方々もきついと思います。
 
当事者からすると、
いつもと変わらずに接してくれるのが一番いいです。 
腫れ物扱いされるのがつらいです。
自分もこうなりたくてなったんじゃない。
でもそのせいで人に気を使わせてしまってるっていうのが辛いです。 
 
だから、いつもと変わらず接してください。
 
 
 
そしてなによりみなさん。
人生楽しみましょう。
 
今生きてる世界だけが全てじゃない。
 
面白い世界はたくさんあるはず。
 
わたしはこれからも自分の気持ちに素直に、 
楽しいことをやって生きていきたいなっておもいます。